令和七年の年の瀬を迎え、めまぐるしく過ぎた一年を振り返りますと、「ゆく年くる年」の言葉のとおり、まずは身近なことから一つひとつを納め、新しい年を待ち望む時節となりました。皆様には、謹んで令和八年の吉春をお祈り申し上げ、福徳円満の新年をお迎えくださいますよう、心よりご祈念申し上げます。
今年令和七年の正月三が日祝祷会にてご挨拶申し上げた内容は、令和五年に収束したコロナ禍を経て迎えた令和六年、「甲辰」の干支についてでありました。新しく植えられた種がようやく芽を出し、新たな始まりと変化、そして再生の一年であると申し上げました。これを受けて令和七年は「乙巳」の干支にあたり、新しい芽がさらに伸び、成長を遂げる年です。外面的には社会や経済が勢いを増す一方、内面的には旧態依然とした邪心がそれを阻み、落とし入れようとする闇の動きも強く現れるでしょう。しかし、春を迎えた強い光と躍動は、結果として成長の勢いを阻むことはできない――そのようにお話しいたしました。
今年一年の世相を振り返りますと、トランプ大統領の就任、そして高市新総理大臣誕生までの背景がありました。より身近な世の中の変化を考えると、成長の強い光と、それによって浮き彫りになった邪心や執着の闇とが交錯する世相が見て取れます。ちなみにトランプ大統領は、就任間もなくウクライナ戦争を終結させられると豪語していましたが、乙巳の「蛇心」の相からすれば、年内の終結は望めないのではないかと申し上げたことが、現実となってしまったのは痛ましいことでありました。
そこで迎える令和八年「丙午」の干支から世相を判断いたしますと、新芽から大きく成長した苗は、今年いよいよ稲穂へと育ち、初夏から盛夏に向かうように、外面的には躍動と成長、そして発展と隆盛の相を示しております。一方、内面的には、この勢いの流れに乗り切れず、あるいは振り落とされることもあり得るほど、今年の勢いはきわめて強いものと言えるでしょう。そもそも十二支の「午」と、それを動物に例える「馬」とは直接的な意味の結びつきはありませんが、人の心の働きや動きを動物にたとえることは、意味よりも動きを表すには妙を得ております。
仏教由来の言葉に「意馬心猿」があります。意馬とは心が馬のように奔放に走り回ること、心猿とは心が猿のように飛び跳ねて落ち着かないことを指します。人間の心は欲望や雑念に引きずられやすく、制御しにくいものであるという教えを、馬と猿にたとえているのです。とりわけ意馬の馬は、いわば裸馬のような存在とも言えましょう。これを乗りこなすことは容易ではなく、その勢いに振り落とされてしまう危うさをはらんでいます。ゆえに、裸馬――すなわち「有頂天になり調子に乗る心」に――しっかりと鞍を置き、手綱を取り、巧みにさばくことが肝要であります。
そういう意味では、今年は進んで流れに乗ることと、同時に心を調子に乗せすぎないこと、この両面を心がけることが大切な一年であります。令和八年「丙午」の年を迎えるにあたり、何事も前向きに捉え、挑戦や拡大に臆することなく、一段上の願望に向かって進んでいただきたいと思います。一方で、それを実現するためには、しっかりとした対策を講じるとともに、世の中の激しい流れに翻弄されることなく、自らの歩みと調子を崩さぬよう心がけてまいりましょう。